なぜ日本人はアドリブに於いて苦労をするのでしょうか?
一つには、歴史的に見て日本人には「ハーモニー(和音)に対するDNAが欠如している、あるいは欠如していた」といっても良いでしょう。
日本民謡を例題に上げると、尺八、三味線、歌い手が同じ旋律、いわゆるユニゾンです。西洋音楽の様にハーモニーらしきものは存在していません。
日本人がハーモニーと接触し始めたのは、そこそこ「百年の歴史」といっても過言ではないでしょう。本格的な「ハーモニーとの遭遇」となると、実質五十年、鬼畜米英、敵性音楽禁止が解禁された第二次世界大戦後といっても良いかも知れません。
日本の音楽教育に対する疑問・なぜ固定ドに?
私が一番不思議に感じていること、困惑している事ですが、いつの時からは、はっきりしないのですが、日本の小中高、学校音楽教育が「移動ドから固定ド」に変更されたことです。ちなみに、私の時代は幸いなことに「移動ド」でした。
教える側から見れば「ヘ長調のドは、ハ長調のファ」等とを教えるより「固定ド」一本に絞れば簡単でよい事は良く分かりますが、今になって「固定ド」一本にしぼった弊害が如実に現れてきている事に、日本の文部省は気が付いているのでしょうか。
もしビルの階を標高で表すとしたらどうなるのか?
霞ヶ関ビルの五階とサンシャインビルの五階では標高は違うはずですね。この各階を標高で表すようになったらどうなってしまうか?想像しただけで頭がこんがらがってしまいます。
日本の学校音楽教育が「音名と音階を分けて教える、学習する」この事に気が付かなければ、ジャズのアドリブはごく一部の「絶対音感保持者」のみにしか出来ない文化となってしまう事でしょう。もしかしたら「絶対音感保持者」にも「ジャズのアドリブは困難な文化」と化すかも知れない。
まあ、ジャズのアドリブなど出来なくても「体制に影響がない」といえばそれまでですが、自分に浮かんだメロディーを譜面に表す時、余程の音楽教育を受けた人以外、ハ長調でしか書けないことになってしまいます。
これとて、体制に影響は無しといってしまえば、返答に詰まってしまいますが。 私としては、今からでも遅くないので、「移動ド教育復活」を叫びたい気持ちです。
なぜアドリブに移動ドが必要か?
例えば、「キーの違うハーモニカ」を演奏する時、もし「固定ドで」と云われたらどういうことが起きるでしょうか、又、もし口笛、あるいは鼻歌を歌う時に「固定ドで」と云われても多分不可能でしょう。
絶対音感が有れば可能かも知れないが…………。
「口笛、鼻歌」の場合は、「無意識の中の移動ド」を利用している事でしょう。 アドリブとは「口笛、あるいは鼻歌」の様に演奏されなくてはならないのです。
「 口笛、鼻歌、無意識の中の移動ド」の呼び出しキーワード
「無意識の中の移動ド」を「口笛、鼻歌」に変換するのは、無意識で出来ます。これはあくまでも、過去に自分の耳にしたり、例えばテレビからのコマーシャルソングであったり、子供の時に親から聴かされた子守歌だったり、今では、電車の発車ベル代わりの音楽だったりです。
ジャズのアドリブの場合は、自分の好きなプレーヤーのCDなり、いわゆる音源を完全に憶えてしまうまで、自分の力で覚え込まなければならない、この作業は辛いことですが、これ無くして、ジャズのアドリブ習得は不可能といっても良いでしょう。
日本語とジャズ
例えば四分音符に言葉を当てはめた場合、英語ならば、1拍目にThis 2拍目
is-a 3拍目book 」日本語では、[1拍目に「こ」 2拍目「れ」 3拍目「は」4分休符]「ホ ン で す 」となります。
英語の場合、言葉自体がスイングしていることにお気づきでしょうか?英語には言葉自体に「裏のビート」が有りますが、日本語の場合、裏のビートが無いので、ビートを出すには、子音の後に子音の母音をのばす様にしてスイングしなくてはならなくなります。
良い例が、少し古くなりますが坂本九の♪上を向いて歩こう♪うーう えーえ おーお むーう うーう いーい てーえ♪こうでも歌わないとスイングしません。
試しに次の曲♪I left my heart in San Francisco♪を何気なく口ずさんでみて下さい
単なる四分音符でもスイングすることに気づくはずです。
この事をアドリブに結びつけると、四分音符4個を演奏しても「一拍でも裏を感じさせる」必要があります。
「タ タ タ タ 」と演奏するときも「タッ タッ タッ タッ」小さな「ッ」を感じさせなくてはジャズにならない。これが「クラシックとの大きな違い」と云っても良いでしょう。
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