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佐渡”ゆかた”文彦
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コラム

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臨時コラム

「第4回日本音楽療法学会」in倉敷、9月3日〜5日report


「第5回日本音楽療法学」REPORTNew


はじめまして、こんにちは。“ちりめん”こと、佐渡です。

 私の大学時代の後輩であるK氏のお誘いにより、この度このような素敵なcyteを立ち上げて戴きました。「コラム」なんて書ける程文才もなく、あまり面白くないでしょうが、国内ではまだまだ珍しいjazz violinistの端くれとして、アマチュアならではの好き勝手な視点で、徒然なるままに述べさせていただきます。宜しくお付き合いお願いいたします。

【何故“ちりめん”? 】
 と申しますと、私の三女のnicknameだからです。
それじゃあ本名は?それはまだ秘密にさせて下さい。ご存知の方もおられるでしょう
が…

【何故“violin”を?】
 勿論、この日本では、violinと言えばclassicが“popular”です。ご多分に漏れず、私も小学校3年生からclassic violinを習い始めました。当時東京に居ましたが、父親に習っていたpianoが嫌で、なんとか逃げ出したい一心で「他の楽器を習うんだったらpiano止めてもいい」という条件を父に提示。その頃同級生のN君がviolinを習っており、彼に負けたくないというライバル意識からviolinを選びました。きっかけなんて、そんなもんでしょう。

 さて、このviolin、習ってみるとやはり、遊び盛りの男の子にとっては苦痛の連続でした。それでも続けられたのは、その同級生に負けたくない一心と、最初に師事したO先生が綺麗な方(当時20歳台半ば?スタイル抜群!?)で、子供ながらに週1のlesson日、お会いできるのを楽しみにしていたからでしょうか。

【色んな恩師との出会い】
 その後、横浜に転居しviolinもO先生のご紹介でM先生(この方も髪の長いスレンダー美人!)に師事。M先生からも多くのことを教えていただきましたが、特に印象深かったのは「暗譜」することがいかに大事か、ということでした。演奏するその曲を弾く時は、最終的には必ず「暗譜」(楽譜・譜面無しで、すなわち“そら”で弾く)をしないと、その曲を理解したことにならない、ということを徹底的に教え込まれました。(実行するのは難しかったですが…)しかしこれが、今jazzをplayする上で非常に役立っています。これは三味線を教えていただいたK先生も同様のことを仰られていました。要するに音楽のジャンルには関係ない、普遍的な心構えだということですね。

さて、この後、何故私がjazzを演るようになったのか、(最初はjazz guitarからでした)そしていかにしてjazz violinに到ったのか、などなどを、次回にお書きすることとして、とりあえず、今後とも宜しく御贔屓の程、お願い申し上げます。


コラム(第2回)

【guitarを演るきっかけ】
さて、中学3年になり、私は受験勉強を理由にviolinを止めてしまってました。しかし、音楽をやりたいっ!という血が流れているのか、中3の音楽の授業の時、たまたまguitarを弾く機会があり、「これはおもしろそう」と思ったのと、当時“村下孝蔵”の「初恋」という曲が流行っており、凝り性の私は村下孝蔵ファンとなり、彼の全てのレコード(当時はまだCDが普及してなかった)を買いあさり、guitarを当時住んでいた横浜・戸塚のダイエーで購入(フォーク・ギター)し、ひたすら彼のコピーをしていました。
因みに村下孝蔵氏は数年前、40歳台にして、心筋梗塞だと思いますが、急逝されました。shockだったです。(コンサートへも行きましたよ)。

guitarでのdebutは、中3の秋の文化祭で、学校の体育館のstageでした。
確か、「アルフィー」とか「オフコース」の曲を演ったような記憶が…(村下孝蔵氏の曲は、あまり一般受けしないと踏んだのでしょう?)
また、卒業記念のeventで、卒業式の前の日にも、bandを組んで、当時流行った「チェッカーズ」を演らされました…

【高校時代】
中学からやっていたvolleyball部と、軽音楽部を掛け持ちしてましたが、いよいよどっちかをmainにせなあかん時が来て、軽音を選びました。(高2の夏)軽音では、J-POP(当時では、レベッカ、渡辺美里、サザン、KUWATAバンド、ボウイ、originalなど)や、Rock(Queen,デヴィット・ボウイ,マイケル・シェンカー,デユランデユランなど)、Fusion(カシオペア・スクエアなど)を、guitar・bass・vocal・keyboard・drumsと、ありとあらゆるband楽器に手を出し、一応それなりにこなしていました。(家に一時期先輩から1万円で購入したdrumsセット
があり、練習してました。すごく近所迷惑やったのでしょうねえ)

【jazz〜fusionとの出会い】
そんな中、うちの高校の軽音では、なぜか忌み嫌われ、先輩から演奏禁止令まで出ていた、オフコースも大好きでした。大概の人は、オフコースといへば、「小田和正」と来るでしょうが、私は「鈴木康博(gui.vo.)」が大好きでした。
その鈴木さんのguitarもかなりCOPYしましたが、彼のmost favourite musicianが、あのLarry Carltonだったのです。それを知ってから、L.CarltonのCDを購入、聴いてみましたが、当時はその良さが判らず、チンプンカンプンでCDは一旦そのままお蔵入り…(数年後の大学時代に聴き直して、はまりました)
そのalbum、“last nite”は、1曲目がいきなりMilesの“so what?”でしたが、高校生の当時では、まったく訳分からずでした。

【大学時代】
高校卒業後、一浪中は音楽とは無縁(listenerとしてのみ)の暮らしでしたが、大学入学で、たまたま信州・松本へ…漠然と、「大学生になったら、jazzを演りたいなあ」と思っていたところ、bassをされていた、当時6回生のT先輩(現在は外科医)に勧められ、松本駅前の“アルハンブラ楽器店”のjazz guitar教室へ週1回、通い始めました。
その時の師匠が「柳原達夫」先生で、今現在は、東京を中心にbasistとしてご活躍されておられます。
柳原先生に、「とりあえず、be-bopを聴け」とadviceされ、ひたすらC.ParkerのCOPYに明け暮れました。
1年近く通い、先生の「ダルース」(松本市内のLIVE HOUSE、現在はお城の近くの市営立体Parkingの1Fにあり、K氏が長い間バイトされてました。当時は本町通り商店街の2Fにありましたね)でのLIVEで1曲共演させていただいたりしていましたが、なかなか芽が出ず、悶々としておりました。
一方、大学の軽音では、original number中心の所謂comic bandで、vocal兼guitarを好き勝手に演ってました。

【JAZZ研は?】
実は、私の入学当初は、うちの大学に「jazz研」というものが存在していませんでした。
後で分かった話によると、現在岐阜市内で高校英語教諭をされているN先輩や、名古屋で建築士をされているM先輩が、私の入学する前の年まで細々と活動されていたらしいのですが、N先輩の院進学や、M先輩の学部進学(工学部は長野市にあるため、転居された)に伴い、自然消滅してしまっていたらしく、ちょうど私と入れ違いだったのです。
そこで、とりあえず「jazz」を演りたかった私は、「ないのなら創ってしまえ」と思い、柳原先生の紹介(ダルース関係)で、当時経済学部生のK君(pf)と、私の同じクラスの友人と同じ「こまくさ寮生」で工学部生のI君の3人で「新生・信大JAZZ研」を再興することになったのです。

さて、次回は「信州大学JAZZ研究会(当時は探究会)」復活・再興に纏わる、
誕生秘話から、いよいよjazz guitarからjazz violinへ転向したきっかけ話などをお
送りする予定です。


コラム(第3回)

<信大JAZZ研再建>

 信州大学ジャズ探究会として、三人でホソボゾと活動を開始したのが、1990年(平成2年)の夏くらいでした。K君(piano)、I君(drums)とくりゃあ、私はbassを演ろうということになり、高校時代のband仲間からずーっと借りていたelectric bassを引っ張り出して、なんちゃってピアノトリオを結成。
練習場所を求めて、肩身の狭い思いをしながら、医学部軽音楽部の部室を借りたりしてました。そのうちジャズ好きな連中が集まり、部員が増え、徐々に勢力を拡大して行くのです。(途中、探究会改め研究会に改名)

 そうなると、益々練習場所兼集合場所としての“部室”が欲しくなります。
医学部の軽音からはかなり嫌がられていたため、徐々に理学部の軽音部室を借りることが多くなりました。(医学・理学両軽音の皆さん!この場を借りて感謝の意を表します)
 部室を手に入れるためには、年に1回開催される「全学サークル総会」で承認され、空いている部室(即ち廃部になるところも必要)を得票の多い順からgetしていけるというルールがあり、その為に、組織票を確保するため前年からダミー・サークルを作るなど、涙ぐましい努力をしました。
その甲斐あってか、遂に1995年(平成7年)(…だったと思います)、部室をgetできたのです!

<jazz guitarからjazz violinへ>

=中西俊博〜Stephane Grappelliとの出会い=
 1991年(平成3年)夏。当時、教養時代に物理1科目のみ単位を落として学部に上れず、いわゆる「単騎」留年中の身だった私は、時間だけは際限なくあり、恐らく今までの人生の中で、一番暇だった時期〜モラトリアム〜でした。だって、週に1時間しか講義がないのですから! それ以外の時間は、バイトに音楽に、費やしていました。

 しかし、jazz guitarに行き詰まっていた時期でもあり、そんな時、車のFMラジオからjazz violinが流れてくるではありませんか…。
 中西俊博氏の存在は、jazzに限らず、いわば「中西ワールドな音楽」として多少知っていましたが、氏がDJを勤めるその番組で、氏のmost favourite musicianとして紹介されていたのがStephane Grappelliだったのです。
 その時、初めてGrappelliの演奏を聴いて(残念ながら、あまりの衝撃で曲目を覚えていないのです)まさに、目からウロコ状態、全身に電流が流れ続けました!
 その日、アパートに帰って、長年眠っていたviolinを押入れから引っ張り出してきて、思いつくままに弾いてみました。(勿論上手くいくはずもありません)
 それ以降、GrappelliのCDを全て買いあさり、聴きまくって、adrib soloを譜面に起こしたり、耳コピーしたりして、兎に角弾きまくりました。

やがて、GrappelliからPonty〜Lockwoodなど、jazz violinistのalbumを殆ど買いあさり…
といった続きは次回のコラムで!


コラム(第4回)


=jazz violin record collector=
GrappelliのCD,LPを、京都・名古屋・横浜・東京と各地で買いあさり、そのうちに、他にもいろんなviolinistがいることに驚きと感動を覚えるようになりました。
J.L.PontyやD.Lockwood、M.Urbaniark、…などなどやはりEurope出身のmusicianが多くを占めていました。兎に角、当たり外れ(jazzのCDには付き物です!)はありましたが、気が付けば、jazz violinのCDだけで100枚を超えていました。

=violinが…=
さて、押入れに長いことホカされていたviolinですが、保存状態が悪かったことと、もともと安物だったこともあってか、(もちろん数年ぶりに弾いたので腕がかなり鈍っていたせいもあるでしょうが…)音色は最悪でした。それにしても楽器の調子がおかしいため、地元・松本にあるviolin工房のcraftsmanの方に診察して頂いたところ、neckの部分が虫食いにあっており、もうお手上げの状態との診断・告知を受けたのです。

=現在の愛器“向日葵(ひまわり)ちゃん”との出会い=
これは、これからの商売道具(?)としてとてもやっていかれないであろうと悟った私は、“String”誌の広告で調べた上で、バイトで貯めた数十万を握り締め、京都・四条大宮にある「マルコ楽志堂」まで(丁度、奈良で学生の軽音楽Festivalがあったため、途中で京都に立ち寄りました)試奏→即購入(足りない分はローン!)となったのです。

今回は復帰後ということもあって、ここら辺りで…次回はいよいよ寺井尚子さん(当時はまだ大brakeする前で“岸母”尚子の名前で出ておられました)の追っかけ(?)の話をぼちぼち…乞うご期待!


コラム(第5回)

=寺井尚子さんとの出会い=(追っかけ?)
奈良での軽音楽祭でpiano trioをplayしていた、当時岐阜大学医学部5回生のA氏(学生のlevelをはるかに超えていました!)のお勧めで、名古屋でjazz violinを弾いている、 とてもイケてる別嬪playerがいるとの情報を教えて戴きました。
そして、時は1993年(平成5年)9月、信州松本からR19を愛車ですっとばして、名古屋の老舗JAZZ CLUB“jazz in lovely”まで聴きに行きました。

それまで聴いていたGrappelliや中西敏博氏とはまた違った、艶のある、blusyな音色に、 当時violin playに行き詰っていた私は大変なshockを受けました。
まさに今現在で言う『寺井尚子ワールド』が、既にその当時のstageからも滲み出ていたのです。

その日はただただ演奏の余韻に浸るのみでしたが、翌月、再度名古屋までstageを聴きに車で向かいました。
(翌日大事な試験があったにも関わらず…)
その時は、(もう時効でしょうが)Casette Tapeに盗み撮りをして(今もMDに移して大事に保管してあります)
さらに、花束まで用意し、お渡しした後で、ナント独占interviewに成功したのです!

その時の写真は(後輩が撮ってくれてたらしいのですが、現在も尚行方不明)ないのですが、signをお願いし、いろいろと先輩(?)としてviolin playの様々なadviceを頂きました。
その後、瞬く間にMajorDebutされ、超一流のartist/musicianとしてご活躍されておられます。
その後も東京・吉祥寺で、京都・木屋町でLiveConcertの度にご挨拶をさせていただきました。

(次回へ続く)


「第4回日本音楽療法学会」in倉敷、9月3日〜5日report

第一日目は講習会。「即興」のsectionで、4連続講義を受けてきました。
率直な印象としては、jazzを演ってる私としては、ごくごく当たり前のことを演っているのに、学会に参加している大多数の方々(恐らくclassic出身の方が多いと思われます)にとっては、新鮮に映ったのだと思われます。
因みに、参加者の殆どの方(恐らく95%以上)は女性でした。
その為、休憩時間の女子トイレは長蛇の列。一方男子トイレは閑散としており、当然の如く、翌日から、男子トイレは、臨時の女子トイレと変わっていました。

その日の晩は、岡山市内のjazz spotのはしごです。
先ずは、内山下にある“MozuPart2”。
一段高くなった、6畳弱の広さのstageに、grand pianoとタイコが鎮座しており、早速AKGマイクをPAに繋ぎ、Beerを引っ掛けた後guitar trio+asのhost bandに交じり、3曲session。
更に、audianceからのrequestを3曲演って、残りのBeerを飲み干しました。

basistの方が左利きで、弦の張り方も全く逆、そのことにある意味深い感動を覚えま
した。
masterも気さくな方で、二つ返事で快く迎え入れて下さいました。

続いて、柳川交差点の北西、野田屋町“PIANO BAR”へは、多少距離があったのと、急いでいたのでTAXIで向かいました。
ビルの3Fにあるその店は、(下がカラオケ・バーで、どっかのおっさんの歌声が漏れてきてました。)古いGrand pianoの周りにcounter barがあり、capasity10名前後の、こじんまりとしたところでした。
pfとbの方たちは、かつて京都でjazzを勉強した経歴のある若いplayerで、数曲お相手をさせて頂いた後、masterの甘いvocalが登場しました。
counter越しにお客さんの間近で弾くため、勿論マイク無しの生音で勝負!
演ってるこちらも非常に心地よいひと時でした。

そこを23時には出て、岡山の老舗spot“BIRD”で最後のつもりだったのですが、演奏したり、喋ったりしているうちに時間は過ぎて行き、気が付けば深夜1時を廻っておりました。
BIRDの皆さん!行くと伝えておきながら行けずに、大変申し訳ございませんでした。
少々無理な日程でしたので、次回は必ずや、貴店を真っ先に訪れたいと思っております。

翌、第2日目は午前中、コリン・リー教授のlecture(piano付き)と、湯川れい子氏の講演。
午後からは、今大会長の岸本寿男先生の講演、というより尺八演奏(gui.pf.vo.との)。
Georgia on my mindのsoloがかっこよかったです。尺八はblue note scaleがはまりますね。

昼下がりの会場内ロビーにて、作曲家・鍵盤ハーモニカ奏者の野村誠氏が、percussionistの片岡氏と何やらsessionしているのを聴きつけ、早速現場へ飛んで行って、violin参入致しました。session終了後、野村氏・片岡氏へや、周りから何人か声を掛けられた時に、渡してしまい、名刺切れとなってしまいました。(嬉しい悲鳴??)

その日の晩は、倉敷の老舗jazz spot“AVENUE”でのsessionでした。
19時になると真っ暗、ひっそりとなる美観地区のはずれにあるその店で、22時半からの、いわば学会懇親会(チボリ公園)の2次会が開催されました。
周りは静かな町並みということもあり、音出しは特別24時迄、その間、岸本先生の尺八、私のviolin、蓮見氏(gui.)、松本氏(pf)、神尾氏(vo)、その他percussionや、も一人violinの初老の方が参加してきたりして、非常に盛り上がりました。
(bluesや、SPAINといった、いわばお決まりの曲が中心でしたが)最後は、「浜辺の歌」を大合唱(大合奏)して音出し終了となりました。いろんな方に音楽のよさ、自由さをアピール出来たかなあ、と生意気にも思いまし
た。

第3日目も各人の演題発表を聞き、夕方に前出のコリン・リー教授のpiano concert(勿論即興)。総会員数は約5,000前後、そのうち今学会の参加者は3,000前後でしょうか。
「音楽療法」に興味がある方々が、こんなにおられるとは…、非常に心強かったです。

地震の影響で少し遅れましたが、新幹線で岡山を後にしました。

総じて言えることは、やはり個人個人音楽は好き or 嫌いがあり、全ての人に普遍的な「音楽」はなく、千差万別なのだと、改めて理解できました。

来年は名古屋で、本邦の「緩和医療(ホスピス)」の第一人者、柏木哲夫先生が座長の予定。

■臨時コラム「第5回日本音楽療法学会REPORT」

今年も行って参りました。

愛知万博で沸く、名古屋・金城学院大学(ミッション系・女子大だそうです。
名古屋では椙山女子大などと並ぶ、お嬢様大学だそうです)にて行われました。

今回、暇あり金なしのため、京都からJRで新快速・米原乗り換えし、名古屋入りしました。(のぞみで38分のところを新快速で2時間ちょいかかりましたが…)そのまま直で会場入りするのも何なので、事前にResearchし、JR中央線で直ぐの新守山駅で下車、徒歩15分かけて、AsahiBeer名古屋工場へ向かいました。金曜日の午前中ということもあり、見学客は私一人。あいにくその日は月に一度の機械の点検日らしく、ラインが止まっていましたが、私一人のために案内役の方を貸し切って約30分工場内をroundしたあと、お待ちかねの試飲タイム。残念ながら、お気に入りの“黒生”は当地では生産されておらず、私の苦手な“DRY”からでしたが、1杯目、しかも出来たて(とのこと)は流石に美味い!2杯目からは、名古屋工場限定の“富士山麗”BEERを試飲。これもcreamyでぐいぐいと3杯目まで飲み干し、上機嫌となったところで、受付の方に持参のviolinを指摘され、是非弾いて下さい!とのこと。ほろ酔いで「いやいや、人様にお聴かせ出来るような…」と照れながらも手は勝手に、聴衆を前に「ロンドンデリーの歌」と「威風堂々」をsoloで披露してしまいました。

丁重に見送られながら工場を後に、新守山駅まで歩き、JR大曽根駅で名鉄瀬戸線へ乗り換え、大森・金城学院大学駅へ。そこから小高い丘を登る事5〜6分でキャンパス内へ到着。流石は私立の、しかもお嬢様大学だけあって、国公立の貧乏学校しか経験のない身には見るもの全てがセレブに感じました。

さて、学会受付を済まし、お昼休みにお目当ての“ハンドベル・コンサート”を聴きに、ランドルフ記念講堂へ足を運びました。その会場もそんじょそこいらのホール顔負けの、すばらしいホールで、【金城学院ハンドベルクワイア】によるその演奏のまた素晴らしいこと!!35年前にわが国で初めて結成された、由緒あるハンドベル・オーケストラとのこと、素人の私でもlevelの高さは判断できました。因みにハンドベルは私が済生会京都府病院に勤務していた時、そこの婦人科の部長・加藤淑子先生が中心となって結成されており、Xmas Concertと病院忘年会で演奏したことがありますが、タイミングがなかなか難しく、奥の深い楽器である印象は持っていました。皆さんも機会がありましたら、是非聴いてみてください。

午後からは、精神科医・吉川武彦先生による“こころ”のlectureと、音楽家・江村哲二先生による“音楽理論”のlectureを受けました。吉川先生は、昭和30年代に、既に病院内のBGMについて試行錯誤されていたとの事。また江村先生は、日本を飛び出し、europeにて音楽教育を受けられたとの事ですが、ピタゴラス理論と純正律・平均律について分かり易く講義をされました。(途中、音の伝わりについての説明では、耳鼻咽喉科医の私から言わせると少し表現がおかしい所はありましたが…)

1日目のプログラムが修了し、宿に一旦戻りました。因みに私の泊まった宿は、金がなかったのと、直前で他のところの予約が一杯だったこと(恐らく万博人気もあったのでしょう)もあり、名古屋の繁華街・今池にある、とってもピンクなゾーンの中心に聳え立つ、カプセル・ホテルでした。カプセル・ホテルは昔、学生の頃ミナミ(難波)で1回泊まった事がありましたが、ほんまに寝るspaceが1畳分あるかないか、しかも2段bedがずらーっと並んで、一種異様な雰囲気でした。(もちろん男子専用ホテルです)但しサウナ・露天風呂付きの温泉(もちろんどこかからお湯を運んできてるらしいですが)に24時間入り放題で、2泊した内合計6回入浴しました。

その風呂に入り、Refreshした上で、名古屋駅前の“大名古屋ビルヂング”裏のビル1階にある、Irish Pub“Peat”へ。既にお目当ての“悠情”氏(violin)と立石由美子氏(piano & accordion)DUOによるIrishな演奏ははじまっており、早速カウンターに座り、GUINNESSを1パイント飲み干し、2パイント目の途中intervalを挟んだ隙に彼らの元へ楽器片手に挨拶を。実は事前にmailでやり取りをしていたこともあって、smoothにjoint sessionへ。金曜日の晩・オフィス街ということもあり、会社帰りのbusiness men/OLの方々を中心に店内は大賑わいで、あたかも本場IrelandのPubを彷彿とさせる中(といっても行った事はないのだが…)“悠情”氏は弾きまくり、聴衆の合間を練り歩き、流石の私も(かなり遠慮してはいましたが)その勢いに圧倒されました。彼らからは音楽が将にEntertainmentであることを改めて学んだ気がしました。演奏も一段落し、GUINNESS片手に音楽談義を楽しみながら名古屋1日目の夜は更けていきました。(ぎりぎり地下鉄終電に間に合い、宿に帰りまた一風呂浴びて就寝)

2日目の朝は、普段どおり6時起き、6時半〜朝御飯を摂りに食堂へ。既におっさんで一杯のその食堂は、大学生協の学食のようなバイキング方式のメニューでした。そこでお腹一杯食べてから学会会場へ。9時からの開会式に間に合うように会場入りし、お目当ての日野原重明会長の挨拶を期待していたのですが、体調が思わしくないのか欠席されておられ、代役の副会長による挨拶でした。(残念!94歳でしたっけ?どうぞお大事に…)

午前中は研究発表やポスターを垣間見て、午後〜メイン会場(例の講堂)にてシンポジウムを聴きにいきました。今回のシンポジストは、東大寺住職の狭川普文氏、ドイツ文学者の小塩 節氏、淀川キリスト病院(淀キリ)ホスピス主任Ns.の田村恵子氏で、地元名古屋音大教授の栗林文雄氏の司会進行により、「音楽とspirituality」というthemeでの開催でした。非常にユーモラスで、楽しく、しかし考えさせられるような、有益なシンポジウムでした。

その後に、特別講師・柳田邦男氏による、感動的な講演がありました。流石はノンフィクション作家、話の持っていき方が素晴らしく、笑いあり涙ありの1時間半は、あっという間に過ぎていきました。

午後5時過ぎに会場を後にし、2日目の夜は、名古屋からJR快速で1駅15分の一宮市へ移動し、その街唯一のLive House“Sonic Brew”へ。その日はsessionnightということで、何人かのplayerらしき先客がいる中、またカウンターに陣取り、GUINNESSSを1パイント、トムヤムクンを肴に待つこと30分。信大時代の後輩で、今は地元・一宮で建築関係の仕事を切り盛りしつつ、演奏・創作活動を続けている河合慎五氏が、愛知万博のeventからかけつけてくれて、約10年ぶりに再会、sessionしました。彼はoriginal CDも出しており、今度京都でRecordingを一緒にすることで話が盛り上がりました。気が付けばとっくに終電の時間を過ぎており、彼に千種・今池まで車で送って貰いました。(河合君、おおきに!)そんなこんなで、2日目の夜も更けていったのです。(宿に帰ってから、一風呂浴びたのは言うまでもありませんが…)

3日目ですが、前日同様朝飯バイキングの後(但し、その前にまた一風呂…)check outし、会場へ向かうつもりでしたが、普段単身赴任で家族とのふれあいがタダでさえ少ない身、早々に名古屋駅へ向かい、お土産購入後、帰京しました。(もちろん帰りも新快速乗り継ぎで)

以上、今年(2005年・平成17年)の音楽療法学会REPORTでした。
来年は、8月最終週末に、仙台・宮城学院女子大学(また女子大かよ?!)で3日間開催されるそうです。子供の夏休み中ということもあり、出来れば家族総出で乗り込み、日本三景の一つ「陸奥の松島」へも是非訪れたいと、「天橋立」を望みつつ思うのでありました。

コラム (第6回)

=新春臨時コラム=

【音楽は、子供も呑める酒である】

私は常々、「音楽」は嗜好品だと思っている。

嗜好品というと、煙草や珈琲・紅茶でも良いと思われるが、私の一番好きな嗜好品という事もあり、「酒」に例える事ができるのではないかと思う。

「音楽」は良いものである。「酒」も百薬の長と謂われる。

しかし、「酒」が全く呑めない人もいる。呑みたくても呑めない人がいる。車の運転手には禁忌である。私の本業でいえば、病院で当直の日は流石に呑めない。月に3〜4回当直をさせられているため、必然的に休肝日となる。

他、「酒」は肝臓の悪い人にも駄目であろう。アルコール依存症で治療中の方に至ってはもっと駄目である。また、同じ人でも、その時と場合によって呑みたい時もあれば、呑みたくない時もあろう。

「音楽」も一緒である。「音楽」が苦手な人もいれば、全く駄目な人もいる。ある統計によると、3人に2人は「音楽」が好きという。ということは3人に1人は「音楽」が苦手、若しくは嫌いな人ということになる。

試験中など、音を出してはいけない状況など、いくらでもあろう。同じ人でも、その時と場合によって、「音楽」を聴きたい・演りたい時もあれば、そうでない時もあるはずである。

「酒」と一口に言っても、様々な種類がある。私の好きな順で挙げていくと、ビール、焼酎、泡盛、老酒、日本酒、ワイン、ウイスキー…などなどキリが無い。それぞれの中でも細かく分類される。個人的には黒ビールと芋焼酎がお気に入りだが、その時の気分や体調・状況によっては泡盛(例えば沖縄料理を食べている時)や老酒(中華料理)が呑みたくなるであろう。「ビール」と一口に言っても、私のお気に入りのギネスや黒エビス、アサヒ黒生、キリン黒生の置いてない店などでは、“つきあい”でドライやラガーを呑まざるを得ない事もある。

「音楽」には“ジャンル”という分類がある。その中で私が好きなのは勿論ジャズなのだが、ジャズの中でも更に細かくジャンル分けされており、マニアにとってはかなりの重要事項であろう。例えば、私は弦楽器奏者ということもあり、どうしてもビッグバンドジャズが苦手(というより馴染みが薄くなってしまう)になってしまうが、場合によっては、聴きたくなる時がある。アサヒスーパードライを美味しく呑める時があるように。

世の中では、20歳未満と、運転前の飲酒は法律で禁じられている。一方「音楽」は、老若男女問わず、運転中でも、少なくとも3人に2人は嗜むことができる処が相違点であろうか。但し、「タダ酒」ほど高いものはない、と謂われる位、「酒」は金が
かかる。「音楽」だってそうだ。私は幸か不幸かアマチュア音楽家の為、「音楽」でメシを食っていくレヴェルではないのだが、プロ・ミュージシャンは生活が掛かっている訳であり、その意味でも「音楽」は一つの商品であると言えよう。そう、「音楽」も金がかかっているのである。

日本の街中を歩くと、そこら中で喧しい程のBGM(Background Music)がかかっている。将に「音」の垂れ流しである。「ふるまい酒」とはいうが、ここまで無節操に、不特定多数に酒が振舞われることはないであろう。「音楽」を聴くのも流すのも演奏するのも自由だが、ある程度節度を持って、責任を持って扱って欲しいものである。

私にとって、去年は音楽活動の再開の年であり、明らかに自分の能力を超えて、無理をしての演奏活動であった様に思う。その為、幾分か消化不良気味であり、納得のいかないstageが繰り返され、反省される。

今年は、ゆっくり、じっくりと演奏・創作活動に磨きをかける所存である。美味しい「酒」をまったりと、こころゆくまで味わうように。
コラム (第7回)

(掲示板の続き)
2007年(平成19年)5月17日(木)
JR金沢駅の東口に降り立ち、右手にある、今回の「第108回・日本耳鼻咽喉科学会・総会」メイン会場となる『石川県立音楽堂』へ向かった。
数年前、浜松で違う学会があった際も、浜松駅北口の右手に『アクトシティ浜松』があったような感じに、どことなく似ていた。
更に、新横浜駅西口の右手の『新横浜プリンスホテル』にも似ているような…
まあ、日本広しといえども、何となく作りと雰囲気が似ているもんやなあ。
『県立音楽堂』は、主にclassical musicの殿堂として、そこをhome groundにしている“orchestra ensemble Kanazawa ”をはじめ、国内外の著名なmusicianのlive concertの予定がぎっしり。先々月の能登地震に対するチャリティーコンサートも開催されるようである。

 お昼時、“Luncheon Seminar”と題して、普段は飲食禁止のコンサートホール客席にて、弁当を食べながら講演を聴き、お勉強。
 午後からは、折角電車できたので、金沢の町をブラブラと歩き回ろうと思い、兼六園方面へ向かいかけたところ、強い風を伴った雨・雨・雨…
それでも負けじと「武蔵が辻」交差点まで歩き、「めいてつエムザ」へ逃げ込んだ頃より小降りになってきたため、傘をしまい、百万石通りを南へ向かい、偶々見かけたメインバンクの『住友信託銀行・金沢支店』へ立ち寄ったあとで、その裏手にある“JAZZ SPOT:穆然(ぼくねん)”(写真1)を発見。入ろか否か迷った挙句、取敢えずもう1件の目的地へ先に向かうこととした。
 金沢城址の高い石垣を左手に見ながら、近代文学館・石川県庁を過ぎ、金沢市庁舎の裏手の「柿木畠(かきのきばたけ)」(写真2)へ。
車が1台漸く通れる(もちろん一方通行)ちょっとした小路が商店街のようになっており、そこで見つけた(というより、目的地としていた)“もっきりや”へ。


写真1 写真2

 店内は、ソファを含めテーブル席が20-30席ほど、奥にGrand piano(G3 size)のあるstageを右手に、カウンターが6席ほどあり、そこへ座る。どうやら私以外は客がいないようだ。
マスターがmenuを差し出し、大変迷った挙句(ギネス\700にしようか)、最も安いHot coffee(\300-確かに安い!だのに美味い!)を注文。
するや否や、初老の紳士が2人目の客として入ってきた。手に小さな紙袋を抱え、マスターに「お土産です」と手渡し、なにやら親しげに会話が弾んでいる。
 暫くして、その紳士の“連れ”である、70歳台の「社長」さんと呼ばれる紳士も加わり、3人で「うちの北川潔が…」「デジョネットはどうこう…」「山中千尋を手放し…」「早間美紀はいいけど、タイミングが悪かった…」「今度通天閣でライヴを企画…」???そのうち、マスターが数百枚はあろうレコードの棚から、その初老の紳士が作ったというalbumをplayerに落とし、かけだした。「あの時は、Disk Unionしかなくって、まだタワーやHMVなんてありませんでしたなあ…」
楽しそうな話にいつ入り込もうかと、迷いに迷い、30分以上経過した後、ついに「あのーすみませんが、大阪のほうでLiveを企画されたはるんですか?」と切り出した。すると、その初老の紳士は、なんと「新世界でレコード・CDを作っているんですが、澤野と申します…」???ひょっとして、ひょっとすると…そう、あの『澤野工房』の澤野さんだったのである。(ちょっと引っ張り過ぎましたね)
“お連れ”の方は、名古屋?で何かを企画されている社長さんのよう。
「私は京都から来たんですが、京都では何かされる予定は?」と問うと、「上賀茂神社でやってくれ、という話はあるんやけど…」面白そうですやん!でも、ちょっと交通の便が…とのこと。

 なんでも、澤野工房所属のmusician(多くは米国在住)を日本に呼び、そのときのツアーで、金沢の“もっきりや”でも何度もお世話になっているとのこと。
来月6月6日(水)にも北川潔trioが演るので、観光がてら?金沢入りされたようだ。
ひょんなことから、あっという間に1時間以上経過し、紳士たちは先にお店を出られた。私も追って、coffee代\300を支払う際、マスターにお礼と「学生の頃は信州・松本のエオンタ(流石にマスターは知っておられた!)でポール・モチアンとライヴの打ち上げで呑んだ」話などをちょいとしながら、店を後にしたのであった。
(興奮のあまり、写真を撮るのをすっかり忘れてしまっていた)


写真3
その後は、やや観光客お決まりのコースで「香林坊」⇒「室生犀星記念館」⇒「西町茶屋街」⇒「犀川大橋」⇒「片町(コンビニでYEBISU BLACKを購入し、歩き呑み)」⇒「長町武家屋敷」⇒そして、お腹をすかして「近江町市場」へ。
 事前にinternetで調べ、クーポン券までprint outしたお店へ漸く辿り着いたところ、【支度中】の札が。あれ?おかしいぞ。11:00〜23:00までって確か書いてあるのに。ひょっとして、まさか…「定休日=木曜日」…the shock!!(また古い)
時間的に(その時は既に17時前)その日の朝の商品が安くなる頃、近江町市場の数ある魚屋さんの前を通る毎に、「兄さん!この蟹、(1杯\5,000−)3杯で\3,000-でいいよー」少し迷ったが、蟹3杯ここで買ってもなあ…(うちのFamilyは甲殻類が苦手)。

近江町市場を項垂れながら後にし(ちょっとブルーになったため)、金沢駅近くの『寿司龍』へ。その途中、面白い看板(電柱に・写真3)相当古いようで、今や黒黄色の注意掲示が「耳鼻咽喉科」の「喉科」にかぶっている。却って人目を引き、宣伝になるかも…。
 『寿司龍』でも事前に用意していたクーポン券を利用し、グラスビールをGET.すぐに握ってもらい、計12貫+更に生中で計F千F百円であった。
寿司屋さんとしては、こんなものなのだろうが、普段の私の食生活(閉店直前のスーパーで、半額になった惣菜を狙う)から考えるとかなりの贅沢(単身赴任約5日分の食費に匹敵)であった。

 金沢駅に戻り、「金沢百番街」という駅ビル内のお土産もの屋の集まりで土産購入、ついでにBEERも購入し、帰りの「サンダーバード」へ乗り込み、一路京都へ(帰京)。
 金沢は人口40-50万人、Jazzをはじめとした音楽が比較的盛んな都市とは聞いていたが、予想以上の芸術都市であり、日帰りながら十分自分の足で楽しめた。
小京都と呼ぶには大きすぎ、失礼にあたるため、中京都?(因みに本家の京都は、大京都???)と呼ぶべきか?今度は、是非1泊し、夜のJazz spotを訪ねてみたい。
 
※次回は、来週土曜日の広島(佐渡家のルーツ)でのJam sessionの模様を随筆にてお送りする予定です。

以上、徒然なるままの随筆=コラムでした。
今夜のサンマルクJazz nightは、練習不足もあり、今一の出来でした。それでも今日が結婚記念日だという、子供二人連れの夫婦がすぐ近くの席で聴いてくれていたのですが、帰りに「とても素敵で、記念すべき日に、いい演奏が聴けてよかったです。有難う」と言われました。この言葉があるからこそ、次はもっとがんばろう、と思えるのですね。

佐渡【ゆかた】文彦

コラム (第8回)
【ゆかた】の、プチ・コラム
2007年(平成19年)5月26日(土)
朝9時過ぎに家を出て、新大阪から新幹線で一路広島へ…。広島駅にはお昼前に到着。
このとき既に新幹線車内でBeerを飲み干し、ほろ酔い気分。
 因みに、新大阪駅構内には、地元の「ダイハツ」の車が、そして広島駅構内には、地元の「マツダ」の車が展示してあった。(この法則でいくと名古屋には「トヨタ」が、横浜には「日産」車あるのかなあ?)
 早速市電(路面電車)の1day passを購入、市電でhotel近くの「銀山町」へ。
 hotelでは荷物を預け(check inの時間には早すぎた為)、また市電で「紙屋町」へ。アーケード街のとあるビルの地下1階・広島お好み焼き「あまんじゃく」に入り、安くてヴォリュームいっぱいの「ももたろう」(卵・イカなど+お決まりの中華ソバにうどんも少々混じっている)をBeer大瓶1本と共に頬張った。久しぶりの本場の味は、やはり美味かった。
 お腹一杯となったところで、徒歩ですぐの『原爆ドーム』へ…。まさに「五月晴れ」といえる晴天に恵まれ、まるで「あの日」のような暑さの中、ドーム→平和公園と散策。途中、相生橋からすぐの太田川の水上ステージで、どこかのフォークグループのライヴイヴェントや、公園のベンチで学生らしきmusicianが、guitar & bass(double bass)で4beat(曲は不明?)の練習をしている風景に出くわした。
 因みに平和公園のモニュメント近くの千羽鶴コーナーで、サンマルクのすぐ近くの小学校児童が折った千羽鶴を見かけた。
 その後、久しぶりに(以前は大学生の時に訪れた)「平和資料館」に入り、「ヒロシマ」という街について学んだ。被爆者2世として生まれた事を改めて感じながら…。

 宵の口まではまだ時間があったため、再び市電に乗り込み、hotelへ戻って仮眠。18時過ぎより、hotelから徒歩数分の、広島の歓楽街「流川」へ繰り出した。居酒屋で1次会を終え、21時を回った所で、いよいよ同じ流川にある、jazzspot“SOHO”へ…。
 
 ビルの3階にあるその店は、エレベーターを降りたところが出入り口(即ちエレベーターのドア=店の扉)であった。もう既にsessionは始まっており、ホストバンドのpiano trioにfrontのtenor saxが、懐かしい曲(といっても当時まだ生まれてないが…)「ダイナ」を演奏中であった。
 早速店の方(後で店長だと判った長茶髪のチャン兄)に楽器と名前を口頭で伝え(登録)、ギネスを注文。店内を見回すと、総勢30名ほどのお客さんの中に、saxを抱えたsession参加者を3名ほど確認。数曲そのsax奏者たちが代わる代わるfeaturingされた後、sessionを仕切っていた清水さん(おそらく店のオーナー)が「次の方は…お待ちかね、尺八の○△さんです。どうぞ!」
(写真1)尺八ニストは、introのsoloで「荒城の月」〜trioが入って「LeftAlone」を、しっとりと演奏しあげて、聴衆は拍手喝采…「次に出る人、演りにくいよなあ…」と話していると、MCの清水さん曰く「えーと、次の方は、violinで佐渡さん、どうぞ!」
急いでcaseから楽器を取り出し、ステージ上へ。“All the Things You Are”をリクエストし、お決まりのintro〜themeへ…相当呑んでいたこともあり、theme通りに弾けなさそうと判断するや否や、かなりのbroken themeの後、soloへ…(写真2)流石に珍しいことも手伝ってか、solo終了時に拍手喝采(?)を浴び、pf⇒b⇒ds(4bars change)⇒後themeへ。
 何とか無事に弾き終わり、お客さんを見回すと、評判は上々のよう…丁度第1部がそれで終わり、暫しのintervalの後、第2部はいきなりfront総勢で“Now's the time”⇒再びステージへ(写真3)

写真1

写真2

写真3

 
また見ず知らずのお客さんからは「violin、かっこよかったです!」とお褒めの言葉を頂戴した。午前零時を回りかけてご満悦のままお店を後に…
自称ラーメン通の店長に教えてもらった、新天地「八丁」で辛旨のラーメンを食した後、賑わう流川を歩いてhotelへ帰ったのであった。

以上、佐渡家のルーツ(佐渡家の墓は、流川のお寺「徳栄寺」さんにあり、sessionの翌日、法事が執り行われた)広島での模様でした。出来ればもっと写真を撮りたかったのですが…次回はどこに出没するか…乞う!ご期待(^^)


コラム(第9回)【ゆかた】の「北海道旅行記」

@第1日目:2007年9月7日(金)『初めての北海道』
 数日前から、天気予報では「台風9号接近!」のニュースが逐一流れていた。
ここ京都は幸いコースから外れ、今朝も多少秋の風は強いものの、良い天気に恵まれ、朝の日課である洗濯物をベランダに干し終えた所で、TVをつけ、台風情報をチェック。
「本日朝に関東上陸!」その後の進路は北北東へゆっくりと向かい、明日には北海道を直撃するでしょう…
 こちとら、今日の昼の便で北海道へ飛び立つ予定なのである。
早速往きの飛行機であるANAのサイトにアクセスし、運行状況を確認。案の定、東京からの便は軒並み欠航。幸い関西からの便は、“今のところ”予定通り運行するとのアナウンスであった為、一抹の不安を抱えつつも昨晩から準備した荷物の最終確認を終え、家内に最寄りのJRの駅まで送ってもらった。
 京都から関空までは「はるか」に乗れば乗り換えなしで速いのだが、“金なし多少暇あり”の貧乏性の私は、普通⇒高槻乗換え⇒新快速で大阪駅下車、KIOSKで缶ビールを買い込み、関空快速に乗り込む。結局自宅から約2時間で関空に到着。
飛行機に乗るのはおよそ3年ぶり、搭乗手続き・荷物預けを済ませ出発ロビーに向かったのは、出発予定時刻の5分前。慌てて受付の方に問うと、私のような連中がまだまだいるらしく、出発ゲートが開くのが少し遅れている模様。一安心し、早速機内のお供に、と併設ショップで缶ビールを購入。いざ、未踏の地(個人的にだが)北海道へ!
 関空を飛び立ち、暫くは安定した飛行だったが、台風の進路の西淵が航路だったようで、途中幾度も機内は揺れ揺れ。元々飛行機が大の苦手な私にとっては、拷問以外の何者でもなかった。本当は睡眠薬でも飲んで到着までずーっと寝ていたかったが、終始交感神経が賦活されていたようで、祈るような気持ちで、一睡もせずに(隣の席の乗客は旅慣れているらしく、殆ど爆睡しておられた。羨ましい)2時間の飛行に耐えた甲斐があり、無事に新千歳空港へほぼ定刻どおり到着。
 安心して、副交感神経優位になったのか、早速空港のトイレへ向かう。用を足し、すっきりした気持ちで預けた荷物を受け取り、札幌往きの快速電車へ乗り込んだ。
札幌までの車窓より眺める北海道の風景は、本州で見られるそれらとは、大分違って見えた。先ずに気付いたのは、家々の屋根。積雪対策なのであろうか、瓦屋根の家が一軒もないこと。勿論、北海道開拓(アイヌの人々に取ってみれば「侵略」かもしれぬが)からたかだか100数年であり、比較的新しい街と、とにかく広大な大地が広がる風景は、信州に8年在住した私に言わせると、「山のない(正確には山が遠くにありすぎてあまり目立たない)信州」のそれに良く似ているように感じられた。
また、途中「北広島」駅に到着。ここは何でも開拓時代に広島出身の移住者が多かったことからこの地名がついたらしいことを思い出しながら、電車は一路、道都札幌へ。
 札幌駅に降り立ち、南口に大丸を確認(なんチャって関西人の私でも、大丸を見ると安心する。東京駅でも同様)して、小雨の中、本日の宿へ向かった。札幌の街の第一印象は、高い建物が規制されている京都から来た私にとってみれば、やはり高いビルが立ち並ぶ大都会。しかし、裏を返せば日本中どこにでもあるような、ビルの濫立する“特徴のない”街のようにも感じられた。

ホテルのチェックインを済まし、大荷物を部屋において、早速、持続した副交感神経優位の為に空腹となっていた体を癒すべく、近くのラーメン屋『久楽』へ。
辛みそラーメンと生ビール(\350-と安い!)を注文し、美味しく頂く。満足して店を出て、すぐ近くにあるという、観光名所「時計台」を探しに、徐々に強くなる雨脚の中、筋を往来するも、なかなか見つからない。周りには「時計台クリニック」や「時計台薬局」、「○△時計台前店」、「時計台前」のバス停まで見つけたが、肝心の時計台は確認出来ず、挙句の果て、近くのコンビニで地図を立ち読みし、漸く狙いを定めてやっとのことで目的地へ到着。そこには、高いビルの中に埋もれるように、白亜の時計台が、ひっそりと建っていた。

 京都でも昨今高い建物が濫立し、漸く今月から市の条例で、高さ制限がより厳しくなったところだが、これでは札幌のシンボル「時計台」も肩身が狭いな…などと思ったのは、私だけではないはずだ。(生憎の雨で、写真1は結局次の日のほぼ同じ時間〜夕方5時前〜に撮ったものを掲載) ホテルに戻り、北海道出身の知人から教えてもらった、「生ラム肉」ジンギスカン料理の店に“コレから伺います電話”をし、暴風雨の中、なるべく地下街とアーケイド街を通って、ススキノにあるその店へ到着。
その名も『ひつじ御殿』といわれるその店は、同系列の『魚御殿』という海鮮料理店の隣にあり、女将さん(失礼だが「おばあちゃん」)が一人で切り盛りしていた。 先ずは飲み物を訊かれ、何の迷いもなく、「ヱビス黒生」をオーダー。隣の『魚御殿』から若い兄ちゃんが礼儀正しく用意してくれる。10席余りのカウンターのみで、目の前でドームの屋根型の鉄板を七輪の炭で熱し、その上で「生ラム肉」を焼くスタイル。女将曰く、豪州産の高級ロース肉で、札幌中数多ジンギスカン屋はあるも、ウチの様な良い肉をこの値段(一皿\800-)で提供している店は数少ない、との事。
早速1皿と焼き野菜のセットを注文。写真2の如くで、半生でも食べられるとのことで、表面を軽くあぶった程度、いわば“しゃぶしゃぶ焼き”(超レア焼き)で、大蒜の効いたタレにさっと通し、口の中へ。

やわらかく、全く臭みのないその肉は絶品!焼き野菜も道産のキノコ、アスパラ、もやし、玉葱など山盛りで\550-とお得。勿論ビールもおかわりし、最後は知人お勧めの「ねこ飯」(キビ飯に鰹節とピリ辛たれをかけたもの)で締めて、会計は\2,650-。機嫌よくお店を後にした。
 まだ時計の針は夜の7時を回った処。事前にinternetでresearchしていた、ススキノのjazz spotの中で、最も興味のあった『らっぱ♪かんかん♪』に行こうと、一応確認の電話を入れるも「この電話は、現在使われておりません…」…。
嫌な予感を抱えつつも、一分の望みを胸に抱きつつ、更に雨脚の増すススキノの街を暴風に煽られながら目的地へ。因みに、札幌の街はご存じの通り、碁盤の目状になっており、テレビ塔を中心に東西南北の筋がそのまま町名になっているようで、京都人(一応、10年住んでます)にとってみると非常に判りやすい街である。その為、南2西5にあるその目的地のビルへも、比較的容易に辿り着いたが、案の定ビルのテナント・プレートには、3階にあるはずのその店の名はなかった。
 他にも何軒かresearchしていたが、何処もsessionの出来るような形態の店ではなく、この暴風雨の中で、violinを持ってのこれ以上の移動は極めて困難と判断。飛行機に乗っただけで、その日の体力の大部分を消耗した身にとっては、ホテルに帰ってホッコリする、といった選択をするのにさほど時間はかからなかった。
 宿泊先のH.クラブホテルは、いわゆるビジネスホテルだったが、比較的新しく、(少なくとも内装や設備は最新・充実!)地下に大浴場があるとの事で、早速疲れた身体を癒しに、タオル片手に湯治へ…。その後、近くのコンビニで購入していた、北海道限定のSAPPORO「CLASSIC」と「夕張炭鉱ビール」を堪能。前者は、KIRINのクラシックラガー以上に苦味の中にもまろやかさがあり、懐かしい(?まだ30歳台ですが)味がして、かなりのfavorite!後者は炭鉱=焙煎なのか、まるで粗挽きの珈琲とのブレンドビールのような味で、非常にユニーク。
 北海道新聞と、北海道ローカルのニュース・天気予報番組をTVで見ながら、「明日の午前中には台風一過の天気になるでしょう」事を確認し、眠りについた。

⇒第2日目こちらです(^^)


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